Amazonでロベルト・ゲルヴァルト, 宮下 嶺夫のヒトラーの絞首人ハイドリヒ。アマゾンならポイント還元本が多数。ロベルト・ゲルヴァルト, 宮下 嶺夫作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またヒトラーの絞首人ハイドリヒもアマゾン配送商品なら通常配送無料。 また体格に比して声は甲高く、「雌ヤギ」と呼ばれることもあった。またヒムラーは彼の陰口を叩く際、細くつり上がった目を指して「モンゴル人」と称する事があった。 しかし、ハイドリヒは自分の能力と統治の成果を過信しすぎていた。かねてよりプラハ郊外の山荘に暮らし、わずかな護衛とオープンカーで出勤・視察するという彼の態度はヒムラーの度重なる注意があっても改まらず、シュペーアにも注意されると「私のチェコ人が、どうして私を殺すというのかね?」と取り合わなかったことが命取りとなった。 ハイドリヒの棺は親衛隊員による大行進とともに運ばれ、総統官邸や国家保安本部を通って軍人墓地(インヴァリデン墓地)まで運ばれ、そこで葬られた。ナチ党の最高勲章であるドイツ勲章と血の勲章が追贈されている。埋葬場所には彼の銅像が付けられたモニュメントが建てられたが、第2次世界大戦後にソ連軍により破壊され、現在は基礎のみが残されている。, イギリスのタイムズ紙は、ハイドリヒの葬儀について「第三帝国の最も危険な男が『ギャング式葬儀』で葬られた」などと報じた[117]。, ハイドリヒの死後、国家保安本部長官の職はヒムラーが兼務し(1943年から親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナー)、ベーメン・メーレン保護領副総督の地位は親衛隊上級大将クルト・ダリューゲが引き継いでいる。, 一方チェコでは、ハイドリヒの補佐をしていたベーメン・メーレン保護領親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクが、ハイドリヒ襲撃のあった日からチェコ全土に戒厳令を敷き、大々的な捜査と報復に乗り出していた。襲撃からハイドリヒが死亡するまでの間だけですでに157人が射殺されていた[107]。 オーストリア出身の親衛隊(SS)中佐。 ナチスドイツの巨大な秘密警察機構、《国家保安本部(RSHA)》のゲシュタポB4課(ユダヤ人問題担当)に所属し、ナチ占領区の1100万人にも及ぶユダヤ人を絶滅収容所に送り込む仕事をしていた。 アイヒマンは凡庸な男であったが、ユダヤ人問題のスペシャリストになろうと研鑽を重ね、いつしかその道のプロとみなされるようになった。上司のラインハルト・ハイドリヒに見出 … 日本は1952年(昭和27年)の第21回総会で加盟し、国家中央事務局は警察庁 。 1967年(昭和42年)9月27日 - 10月4日の間、京都市で第36回総会が開催された 。1975年(昭和50年)から事務総局に警察庁職員を派遣している。 『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(ハイドリヒをうて ナチのやじゅうあんさつさくせん、Anthropoid)は、2016年制作のチェコ、イギリス、フランスの戦争映画。, 第二次世界大戦中、ユダヤ人大量虐殺の実権を握り、その冷酷さから「金髪の野獣」「プラハの屠殺者」と呼ばれたナチス親衛隊の大物幹部ラインハルト・ハイドリヒを暗殺したエンスラポイド作戦を描いた映画。, 1941年12月、チェコスロバキア亡命政府から、スロバキア人のヨゼフ・ガブチークとチェコ人のヤン・クビシュがナチス占領下の祖国に落下傘で降下し、ヨゼフは負傷する。二人は接触相手に裏切られ、トラックを盗んでプラハに向かう。, プラハでヨゼフは獣医に治療を受け、レジスタンスのヤン・ゼレンカ=ハイスキー に会う。二人はチェコスロバキアを占領するナチスのトップであるラインハルト・ハイドリヒを暗殺するエンスラポイド作戦を実行する指令を受ける。彼らは二人の女性-レンカ・ファフコヴァーとマリー・コヴァルニコヴァー -をはじめとする人々の助けを得て、ハイドリヒが車で出勤するところを待ち伏せする計画を立てる。ハイドリヒがパリに翌々日転任することを知り、1942年5月27日に実行する。, 襲撃の瞬間、ヨゼフの機関銃は故障するが、ヤンの手榴弾でハイドリヒは負傷する。二人は逃げるが、ナチスはチェコ市民に報復する。レンカは逃げるところを殺され、レジスタンスのカレルはナチスに寝返って二人をかくまっていた家族を教える。二人は仲間たちと教会に隠れる。ハイドリヒは死に、ナチスは報復にリディツェ村の16才以上の男性を皆殺しにし、女性と子供たちは収容所に送る。, 二人をかくまった家族はゲシュタポに襲われ、母は青酸カリで自殺し、息子は拷問に耐えかねて二人が隠れた教会を漏らす。ナチスは教会に部隊を送り込み、激しい銃撃戦の末に二人を含むレジスタンスは全滅する。報復として、合計で5000人のチェコスロバキア市民が殺される。ハイドリヒ暗殺は、連合国側が成功させた唯一のナチス幹部暗殺となる。, Anthropoid i Mušketýři. SSの高級幹部たちと遊興に耽ることはあったが、美貌の持ち主だったのにもかかわらず、娼婦たちの間でも不人気だった(それどころか情報収集のために盗聴器だらけの娼館を営業していた上に自身も常連で、挙句の果てに自分が利用する時だけは盗聴器のスイッチを全てOFFにさせていたという体たらくだった)。写真を撮影されるときも、ハイドリヒは狼のような目つきでカメラを凝視するために、彼が笑顔を堪えて写し出された写真は殆ど無いと言ってもよい。 ブルーノの音楽学校の生徒数は1901年には20人だったが、1904年には134人、1912年の最盛期には400人に達していた。ブルーノが雇い入れた教師の数も1902年には6人だったのが、1914年には常設教師26人と臨時教師9人になっていた[13]。 このことで有能な将校と目されるようになっていったが、同僚とはほとんど打ち解けなかったという[18]。ハイドリヒは、その北欧人種的な外見から海軍内で「金髪のジークフリート」(ジークフリートとは、ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公)と呼ばれていたという。一方で海軍時代にも彼がユダヤ系だという噂があり、「金髪のモーセ」ともあだ名されていたという[9]。, 周囲から将来を嘱望されていたハイドリヒだったが、1931年5月、海軍中佐待遇の軍属の娘との交際のもつれから軍法会議にかけられ、海軍を不名誉除隊する[20]。 1919年にハイドリヒは15歳にしてゲオルク・メルカー(Georg Maercker)少将率いるドイツ義勇軍に参加している[9]。民族主義団体「ドイツ民族防衛同盟」(Deutschvölkischer Schutz- und Trutzbund)にも所属し、反ユダヤ主義的思想に影響された[15]。, アビトゥーアを修了後、1922年3月30日に18歳でドイツ海軍(Reichsmarine)へ入隊した[9]。はじめキールの海軍工廠で勤務していたが[15]、その後、ブランデンブルク級戦艦「ブランデンブルク」(SMS Brandenburg)と練習船「ニオベ」(Segelschulschiff Niobe)での勤務を経て、1923年7月から1924年3月末にかけてブレーメン級小型巡洋艦「ベルリン」(SMS Berlin)に勤務した[16]。 日本外に滞在中または居住中ですか? ビデオによっては、日本外でご視聴いただけない場合があります。サインインして、利用可能なビデオをご確認ください。, レンタル期間は30 日間で、一度視聴を開始すると48 時間でレンタルが終了します。, ご自宅のテレビ画面でPrime Videoの視聴が可能なデバイスをご紹介。Prime Videoアプリ対象のスマートテレビ、またはテレビに接続して利用するPlayStationなどのゲーム機器をご利用いただくことでPrime Videoをテレビ画面で視聴できます。 対象の機種・機器を今すぐチェック, イギリス政府とチェコスロバキアの亡命政府の指令を受け、二人の軍人ヨゼフ・ガブチーク(キリアン・マーフィー)とヤン・クビシュ(ジェイミー・ドーナン)がチェコに潜入。二人はチェコ国内でレジスタンスの協力を得てハイドリヒを狙撃する機会をうかがっていた。愛する女性との幸せな生活を夢に見て心が揺れ動きながらも、祖国のために、平和のためにハイドリヒと戦うことを誓う。しかしそれが壮絶な悲劇の始まりであった。(C) 2016 Project Anth LLC All Rights Reserved, さらに、映画もTV番組も見放題。200万曲が聴き放題 この粛清での活躍により地位を高めたハイドリヒはSDの拡大と人材発掘に励んだ。やがてSDは3,000人の諜報員を有する一大諜報組織となった[46]。この時期にハイドリヒが人材発掘した者にアドルフ・アイヒマンやヴァルター・シェレンベルクがいる[47]。, 1936年6月17日の法令でドイツ全州の警察指揮権が正式に中央政府に移され、ヒムラーが全ドイツ警察長官に任じられた[48]。 第二次世界大戦開始以前から国内と他国から情報をかき集めて、ナチスが優位に立つように働いた。そうして親衛隊の中ではヒムラーに次ぐ有力な軍人として君臨し、1943年にベーメン・メーレン保護領と称されたチェコの植民地を懐柔政策と徹底的な圧力で統治する支配者になる。ハイドリヒの巧みな恐怖政治によりチェコの統治は円滑に進み、その功績が認められてハイドリヒはより重職につくことが内定していた。 その中で私が一番期待しているのは、8月12日公開の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』です。1975年に製作されて、翌年日本で公開された『暁の七人』以来久々の、ハイドリヒ暗殺作戦を本格的に再現したようです。 ラインハルトも父の教育で幼いころより音楽をたしなみ、やがてヴァイオリンの名手となった[9]。, 1914年にハイドリヒは、カトリック系のハレ王立実科ギムナジウムへ入学した[12][9]。入隊できる年齢ではなかったため、第一次世界大戦には出征していない。しかし大戦中にはすでに民族主義的な思想を持ち、人種差別主義者であったという[9]。, ドイツ革命によるドイツ帝国の崩壊と第一次世界大戦敗戦の混乱でドイツにインフレが襲い、ハイドリヒ家は経済的に困窮するようになった[14]。 4分間ほど放送したのち、ナウヨックスは、ミュラーから渡された「缶詰」を置き残して、撤収命令を出して去っていった[82]。, 翌日、アドルフ・ヒトラーは「ポーランド軍」によるグライヴィッツ放送局の攻撃を批判。いまやドイツとポーランドは戦争状態に入ったとしてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった[81]。, 第二次世界大戦開戦後の1939年11月8日、ヒトラーは、ビアホール「ビュルガーブロイケラー」(Bürgerbräukeller)でミュンヘン一揆16周年記念演説を行った。しかしヒトラーが退席した後、時限爆弾が爆発し、7人が死亡し、63人が負傷した。, 実行犯としてゲオルク・エルザーが逮捕されるが、ハイドリヒは、背後に敵国イギリスの工作員がいると睨み、翌11月9日にシェレンベルク、クノッヘン、ナウヨックスに命じてオランダのフェンローにいるイギリス軍の諜報員ペイン・ベスト(Payne Best)大尉とリチャード・スティーブンス(en:Richard Henry Stevens)少佐の二名を拉致させている(フェンロー事件)。, シェレンベルクが反ナチ派に成り済ましてペイン・ベストとスティーブンスに接触し、ナウヨックスが銃撃戦の末に2人を拉致したものであった。この事件は「オランダがヒトラー暗殺未遂事件の関与者をかくまった」という証拠になり、1940年5月10日のドイツ軍のオランダ侵攻の際に口実に使われた[83]。, 1941年の4月には部下であったヨーゼフ・マイジンガーが、駐日ドイツ大使館付の警察武官兼SD代表として派遣された。彼は着任直後、日本の特別高等警察や憲兵隊と連絡を取り合ったが、日本で活動していたソ連のスパイリヒャルト・ゾルゲと親密な関係を持っていたマイジンガーは、ゾルゲを「信頼できる」として、憲兵隊や特高に身分保証して尾行を中止させ[84]、彼と頻繁に酒を飲み交わす仲になった。しかし、特高は引き続きゾルゲの尾行や調査を続けており、その結果、ゾルゲ事件が発覚し逮捕に繋がった[85]。, 1938年10月28日にハイドリヒは、第一次世界大戦後にドイツへ移住してきたユダヤ系ポーランド人1万7000人をポーランドへ送り返す追放命令を出した。この命令に基づき、ドイツ警察はポーランド系ユダヤ人を次々とトラックや列車に乗せてポーランドへ移送しようとしたが、ポーランド政府が受け入れを拒否して国境が封鎖された。ユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、窮乏した生活を余儀なくされた。, この中にセンデル・グリンシュパンの一家があった。センデルはパリにいる17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはこれに激昂してドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートを暗殺して世にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した[86][87]。, ラート暗殺を受けて1938年11月9日から10日にかけてドイツ全土で反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」が発生したが、この際にハイドリヒは、暴動の取り締まりを行わぬよう各地の警察署長に次のように命令している。, 「(1938年)11月9日から10日かけてドイツ全土でラート書記官殺害にからんで反ユダヤデモが予定されている。次のように処理せよ。, 警察は本指令の遂行を監督し、掠奪者は逮捕する。」[88] ところが、当時の総督コンスタンティン・フォン・ノイラートは、現地住民に対して融和的な政策を行っていたため、サボタージュ[要曖昧さ回避]や抵抗運動が多発し、同地の兵器生産力が20%近く落ちていた[107]。 ハイドリヒの索引カードには政敵の様々な情報が記載されており、ヒムラーも彼のことを「生まれながらの諜報家」「生きた索引カードで、すべての糸を集め、それを編み直すことができる頭脳」と評したという[31]。 日本においては漫画・小説・ゲーム以外の作品にはめったに出ない上、戦時中に死去してしまう事からヒトラーやヒムラー、アイヒマンに役を取られがちである。, このように某SF小説作品のラインハルトに勝るとも劣らぬ出世スピードである。 公人として優秀な代わりに人格面に欠陥を抱えるものの多いナチス高官において、その最たる例とも言うべき人物であったが、家庭では女性問題の酷さを除けば意外と真っ当な人物であったという。結婚の際の些細な擦れ違いから疎遠になってからも母への仕送りを欠かさなかった孝行息子であり、(長男が事故で夭逝したのもあるのだろうが)次男が少年兵になるのを防ぐためにヒトラーユーゲントに入れなかった子煩悩でもある。女性問題の方も奥方が(多分、数え切れない数の女性問題に対する報復目的で)浮気して以降は反省したらしく、以後は生涯夫婦円満であった。奥方は後に再婚したものの、死ぬまでハイドリヒを擁護し続け、彼が熱を入れあげていたホロコーストの存在も否認した。, その冷徹さ・カリスマ性がウリで、主にWWⅡを舞台・モデルにした作品に出ることが多い。 ベーメン(ボヘミア)はルール地方と並ぶ当時のドイツの大工業地帯であった。アルベルト・シュペーアによれば、ドイツ軍の戦車の三分の一、軽機関銃の40%はベーメンで生産していたという[106]。 ハイドリヒはフェンシングに長け、乗馬・飛行機・スキーといったものの操縦にも優れていた。特にフェンシングではオリンピック代表に選ばれ、SSでは体育監察官を務めるほどのスポーツマンであり、そのためかスポーツ選手には比較的寛容であったとされる(ユダヤ系スポーツ選手が国外逃亡できるよう手配した事があると言われる)。しかし、それでも友人はほぼいなかった。 ユダヤ人問題の最終的解決計画は「ホロコースト」と呼ばれ、即ちユダヤ人の絶滅となるのだが、何故こうした主義を抱く様になったのかは、母方の祖母の再婚相手がユダヤ人のような名前だった事から少年時代から「ハイドリヒはユダヤ人だ」と馬鹿にされてイジメられていたことから繋がっている。反ユダヤ主義とは、政治的なものではなく医学的なものであるという言葉を残しているほどその思想は強烈なものであり、ユダヤ人は抹殺するべきであると言う旨の言葉を多く残している。 優れた密偵・工作の能力でドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であり、すなわちナチのユダヤ人虐殺を推し進めた象徴的存在とも言える。それに加え、長いナイフの夜事件、水晶の夜事件、スターリンの大粛清、第二次世界大戦開戦にも深く関わった。端的に言えば、ナチスの重大な犯罪行為ほぼすべてに関わった人物と言えるだろう。 In English. なお黄色いダビデの星は、1939年11月23日にポーランドで実験的に導入された[91]。, ハイドリヒは1941年7月31日にゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解決」の委任を受けており、ホロコーストの最高司令官とも言うべき存在であった。, アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐の証言によると、上記委任文書も国家保安本部が作成したもので、ゲーリングには署名だけさせたものであるという。, この権限に基づき、ハイドリヒは1942年1月20日にベルリン郊外のヴァンゼーにおいて各省次官を招集して「ヴァンゼー会議」を主宰した。この会議でナチス政権は正式にユダヤ人絶滅を取り決めた。会議の出席者の一人であったアイヒマンは後に「会議では、殺害・根絶・絶滅の方法について話し合われた。方針は決められ、目標が宣言された。最終解決の実行は即時に行うとされたのである。」と証言している[93]。この会議でのユダヤ人絶滅決定に基づいて開始された三大絶滅収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)での絶滅作戦は、ハイドリヒの死後に彼を偲んで「ラインハルト作戦」と命名される[94]。ラインハルト作戦に基づいて、ベウジェツでは55万人[95][注 4]、ソビボルでは25万人[96][注 5]、トレブリンカでは最低73万人[97][注 6]が虐殺された。, 悪名高い移動殺人部隊「アインザッツグルッペン」を組織したのもハイドリヒであった。アインザッツグルッペンは、オーストリア併合、チェコスロバキア併合、ポーランド侵攻、独ソ戦などドイツが東方に領土を拡大するたびに組織され、ドイツ国防軍の後方で「政治的敵」「パルチザン」とされた共産主義者やユダヤ人、知識人などの掃討を行った。アインザッツグルッペンの指揮官には、ハイドリヒの腹心である国家保安本部の親衛隊将校達が配された。名目上、アインザッツグルッペンの指揮権はドイツ国防軍に属していたが、実質的には国家保安本部長官たるハイドリヒが指揮権を握り、軍がその活動内容を知ろうとすることは許されなかった[98]。1941年12月20日、ハイドリヒはヒトラーにアインザッツグルッペンが36万3211人のユダヤ人を殺害したことを報告している[99]。この後もアインザッツグルッペンの虐殺行為は続き、最終的には総計120万人のユダヤ人が虐殺されたとみられている[100]。, ハイドリヒは大戦中に空軍パイロットとしても出撃していた。枢軸・連合国を通じてこのような行動に出た高官は極めて珍しい。事の始まりは、1936年に彼が保安警察長官となった際、専用の公用航空機を与えられたことだった。ハイドリヒは航空機の操縦に強い興味を示し、毎日のように執務時間前にパイロットから操縦の仕方を習い、複葉機に乗って急上昇や宙返り、横転の練習をして楽しんでいた。これが高じてベルリン郊外のシュターケン(ドイツ語版)にあったドイツ空軍飛行場などにも出入りして、飛行練習をするようになっていた[101]。, 1939年9月1日にポーランド侵攻が開始されると、ハイドリヒはブルーノ・レールツァー空軍少将に頼み込んで自らを第55爆撃機団(KG55)所属の予備役空軍大尉(後に少佐に昇進)にしてもらった。1939年9月12日にポーランド戦線に機銃手として初めて出撃した。しかし彼は機銃手だけでは満足せず、シュターケンの飛行場で戦闘機パイロットとして訓練を受け、戦闘機パイロットの資格を得た。そして1940年4月のノルウェー侵攻では第1飛行隊(JG1)所属のメッサーシュミットBf109のパイロットとして出撃した。またメッサーシュミット Bf110のパイロットとしてイギリスやスコットランドへの偵察にも飛んでいる[102]。 ヒムラーにとって総統ヒトラーは絶対的存在であったが、上司が総統に見せる忠誠心をハイドリヒは侮蔑していた。ハイドリヒはあらゆるイデオロギーを軽蔑しており、ナチスの主義思想を信奉しようとは全くしなかった。ヒムラーはハイドリヒの優秀さを内心恐れていたが、同時にその手腕に頼らざるをえなかった。ゲーリングはヒムラーを嘲る意味を込めて「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich ヒムラーの頭脳すなわちハイドリヒ)という言葉を残している。 【1位】映画・海外ドラマ・アニメに特化!U-NEXT! このような惨状に業を煮やしたヒトラーは、政治警察を配下に置き手腕を発揮していたハイドリヒを同地に送り込んだ。なおノイラートは、彼の副総督就任をヒトラーから聞かされた際に、総督職の辞任を申し出たが却下されたため、形式的に総督に残留しながら休職処分という形になった[105]。, ヒトラーの期待通り、ハイドリヒは卓抜した行政手腕を発揮した。彼は9月27日にプラハに到着すると同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させた[107]。首相アロイス・エリアーシを見せしめに逮捕して死刑判決を下し(その後、「市民が問題を起こさなかった」というチェコ市民への温情を装う理由で執行が延期にされた)、またゲシュタポに反体制派やヤミ市場の捜査を徹底させ、数週間にして主だった反体制勢力を領内から一掃してしまった。ナチスの法的手続きさえも無視して拘束者を即銃殺するよう命令を出すこともあった[108]。また、公開処刑もしばしば行っている。特にヒムラーがプラハ訪問中だった1941年12月15日に、プラハ聖堂前の広場で大規模で派手な公開処刑を催した[108]。1942年2月4日にはハイドリヒ自身が秘密演説の中で次のように述べた。, 繰り返される逮捕と処刑によりやがてハイドリヒは「プラハの虐殺者」の異名をとるようになった[109]。, 一方、抵抗運動は概して中産階級のインテリ層から起こるもので、労働者階級からではないことを知っていたハイドリヒは、労働者階級の懐柔策をとった[110]。労働者の食糧配給と年金支給額を増加させ、チェコで初めての雇用保険を創出させた。また、カールスバートのリゾートホテルなどを接収し、労働者の保養地として開放した。ハイドリヒ夫妻は毎日のように労働者の代表団をプラハ城に招待して歓迎し、代表団の陳情によく耳を傾けた。貴族出身のノイラートがブルジョワ層にのみ支柱を求めたことと対照的であった[107][110][111]。, 飴と鞭を巧みに使い分けるハイドリヒの他民族支配は成功を収め、ベーメン・メーレンは次第に安定に向かった。ヒトラーもこの状況に満足し、続いてフランスおよびベルギー総督に内定させていた。次の任地視察のため、1942年5月6日にハイドリヒはパリを訪問している[112]。もっとも、ハイドリヒ自身はヒムラーを飛び越えて内相の座を狙っていたといわれる[113]。, ハイドリヒはベーメン・メーレンで「人間味ある総督」に見せようと心がけていた。記者に妻リナや幼い子ら(クラウス、ハイダー、ジルケ)などと一緒にいる写真をよく撮らせていた。また一家は重々しいプラハ城に定住せず、郊外にある田舎町パネンスケー・ブジェジャニ(チェコ語版)の屋敷で暮らした。専用車であるコンバーチブルタイプのメルセデス・ベンツ 320A(英語版)も常にオープンカーの状態にし、プラハ市民に自分の姿がよく見えるように走らせることが多かった。威圧的にならぬよう護衛車両をつけることもあまりしなかった。ヒムラーはプラハ訪問中にハイドリヒの個人警護が少なすぎると懸念し、警護をもっと増やすよう命じており、またハイドリヒの警護に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、彼は最後まで耳を貸さず、結果的にはこれが命取りとなった[114]。, チェコの状況に危機感を抱いていたイギリス首相ウィンストン・チャーチルや、在英チェコスロヴァキア亡命政府は、密かにハイドリヒの暗殺を計画。亡命チェコ軍人からヨーゼフ・ガブツィク曹長、ヤン・クビシュ(英語版)軍曹ら10人が選抜され、イギリス軍特殊作戦執行部(SOE)から暗殺に必要な訓練を受けた[115]。彼らはイギリス空軍機から降下してチェコ領内に降り立ち、プラハ市内に入った。, 1942年5月27日早朝から、トロヤ橋手前のホレショヴィチェ通りにあるカーブの前で、プラハ城へ出勤するハイドリヒの車両を待ち受けた。午前10時半頃、ハイドリヒのメルセデス・ベンツのオープンカー(やはり護衛車両をつけておらず、拳銃を携帯した運転手ヨハネス・クライン親衛隊曹長が同乗しているだけであった)がこのカーブに入り、スピードを落としたところでガブツィクが車両の前に飛び出して隠していたステンガンを出して撃とうとしたが、弾詰まりを起こしてしまった。驚いたハイドリヒはクラインに車を止めるよう命じ、思わず立ち上がった。ガブツィクは逃亡し、クラインがこれを追跡した。ハイドリヒは立ちあがった姿勢のまま一人その場に残されたが、そこにクビシュが改造手榴弾を投げつけた。ハイドリヒは爆発後すぐに車を飛び降りて、クビシュに向かってピストルを乱射して応戦したが、彼もすぐに逃亡していった[116]。, ハイドリヒは無傷に見えたが、実は爆発の影響で腹部と肋骨部に車のスプリングと金具の破片が食い込んでいた。彼はその場で倒れ込み、現場に居合わせた市民達がブロフカ市立病院へと搬送した。病院側は直ちに他の全患者を病棟から追放し、ハイドリヒ専用の緊急治療体制を敷き、現地の外科医師による手術が行なわれた。ハイドリヒが襲撃を受けたという報告を受けたベルリンのヒムラーは、しばらく放心状態になっていたという。その後、彼はカール・ゲプハルト以下親衛隊医師団を連れて自らプラハへ見舞いに赴いた。ハイドリヒの容態は悪くなる一方でヒムラーと最後の面会をしたのち、6月4日午前4時30分頃に死去した。襲撃からおよそ一週間後の死であった。病院は死因を「負傷による感染症」と診断した[117]。, クビシュが投げつけた手榴弾には、イギリス軍が密かに生物兵器として開発していたボツリヌス菌が込められていたという説や、ハイドリヒの権力増大を危惧したヒムラーによって、搬送後の彼にわざと適切な処置を施さず死に至らしめたなどの説があるが、いずれも確証はない。, ハイドリヒの遺体は棺に納められてベルリンへと搬送され、6月9日にベルリンにおいてヒトラー出席のもと葬儀が大々的に行われた。棺はナチの鉤十字の旗で包まれ、親衛隊員たちにより厳重に守られていた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団がワーグナーの「神々の黄昏」から葬送行進曲を演奏した[107]。, この葬儀の中でヒトラーはハイドリヒを「鋼鉄の心臓を持つ男」と称えている[118][119]。 レーム初め突撃隊幹部は、突撃隊をドイツの正規軍とすることを望んでおり、国軍と軋轢を強めていた。ヒトラーは国軍を掌握するためには突撃隊を何とかしなければならないとは考えていたが、レームとは古参幹部で唯一「お前」と呼び合う対等の仲の同士であり、なかなか粛清に踏み切れなかった。そこでハイドリヒは突撃隊謀反の証拠を捏造・流布し、これをヒムラーからヒトラーへ伝えさせ、とうとう彼に粛清の決意を固めさせたのであった[58][59]。, レームはヒムラーとともにハイドリヒの長男クラウスの代父になっていた。ヒムラーが突撃隊の粛清には賛同しつつもレーム個人については躊躇していたのとは対照的に、ハイドリヒが彼に同情を抱く様子は全くなかった[60]。ハイドリヒは、レームの粛清を親衛隊が突撃隊へ優位を確立するチャンスとしか捉えておらず、ヒムラーを説き伏せて抹殺の決意を固めさせたのであった[61]。, ハイドリヒは、粛清対象をリストアップする事実上の最高責任者であった[58]。彼はこれに乗じて突撃隊だけではなく、党内外の反対分子をまとめて粛清することを企み、突撃隊以外の人々の名前も次々とリストに加えさせていった[62]。なおハイドリヒは、粛清名簿の中にゲーリングの息のかかった前ゲシュタポ局長ルドルフ・ディールスの名前も加えていたが、それに気づいたゲーリングが猛抗議し、名簿から削除させている[50]。, 6月28日夜にヒトラーはバイエルン州のバート・ヴィースゼーで療養中のレームに電話を入れ、突撃隊員が起こした暴力事件について、30日にそちらで会議をしたいので幹部を集めておくようにと指示を出した[58]。ヒトラーは、30日にミュンヘンへ飛び、ヨーゼフ・ディートリヒのライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラーを指揮してレーム達突撃隊幹部の逮捕を自ら行った[63]。突撃隊幹部らが次々と銃殺されていく中でも、ヒトラーはレームだけは助命するつもりでいたが、ヒムラーらが強硬に処刑を主張するのに折れ、最終的に認めさせた。, 一方ハイドリヒは、ヒムラーやゲーリングとともにベルリンにあり、同地で粛清の指揮にあたっていた。ゲシュタポやSDの将校を次々と呼びだしては独特な早口の甲高い声で次の命令を繰り返した。「総統命令。レームによる武装蜂起。国家非常事態。直ちに行動せよ」[64]。ベルリンや北ドイツでの粛清は多くがハイドリヒの命令によって行われた。エーリヒ・クラウゼナー、エドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)、カール・エルンストの殺害などはハイドリヒの命令による[65][66]。, 事件後、ハイドリヒは粛清の功績を認められ、親衛隊中将に昇進した[67]。1934年7月20日には、ヒトラーは親衛隊の功績を賞して突撃隊からの独立を認めている[68]。この事件でハイドリヒは冷酷無比の評判を得、党の古参党員達からも恐れられるようになった。内相ヴィルヘルム・フリックは、「今後、私はヒムラーの入閣を支持することはあり得る。だがどんな場合でも、あの“暗殺者”ハイドリヒだけは入閣させるわけにはいかない」と述べたという[69]。, ヒトラー内閣の国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクと陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュは、イギリスとフランスの中立が担保されない限り、戦争による領土拡大には慎重であるべきという立場であった。そのため冒険的対外政策を推進するヒトラーやゲーリングとはしばしば対立した[70]。 歴史改変小説などにおいては、その有能さと野心からヒムラーに代わってSSの指導者に昇進させられたり、ヒトラー亡き後の総統にされたりする事もある。 ハイドリヒがパリに翌々日転任することを知り、1942年5月27日に実行する。 襲撃の瞬間、ヨゼフの機関銃は故障するが、ヤンの手榴弾でハイドリヒは負傷する。二人は逃げるが、ナチスはチェコ市民に報 … 「ラインハルト」の名前はブルーノが作曲したオペラ『アーメン』(Amen)の主人公の名前から付けられた[7][6]。また「トリスタン」の名はリヒャルト・ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の主人公の名前から付けられ、「オイゲン」の名はエリーザベトの父の名前から付けられた[6]。愛称は「ライニ」(Reini)[9]。 ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年 3月7日 - 1942年 6月4日)は、ドイツの政治家、軍人。 最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および警察大将(General der Polizei)。. なおこの両諜報機関の争いはハイドリヒ存命中には勝負がつかなかったが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件でカナリスが処刑されたことでアプヴェーアはSDの傘下となり、SDの勝利で終わった。, 1939年8月にヒトラーは、ポーランド侵攻の意思を固め、ヒムラーとハイドリヒに開戦口実を作るための偽装工作を命じた。こうして計画されることとなるのが「ヒムラー作戦」と名付けられたグライヴィッツ事件であるが、この計画の立案者もハイドリヒであった。, その計画とは、自分の部下にポーランド国境に近いグライヴィッツのラジオ局をポーランド軍人に成り済ましたうえで占拠させ、ポーランド語でドイツとの開戦を煽る声明を放送させる計画であった。また強制収容所の囚人を殺害してその死体にポーランド軍服を着せて現場に置き残し(死体は「缶詰」と呼ばれた)、襲撃犯たちが死んだと見せかける事も計画された。この計画は8月初めにヒトラーの了承を得て実行に移されることとなった[80]。, 早速ハイドリヒは、SD外務局長ハインツ・ヨストにポーランド兵の軍服を、保安警察ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーに強制収容所から「缶詰」を調達するよう命じた。さらにグライヴィッツ放送局襲撃実行部隊の指揮官としてアルフレート・ナウヨックスを任じた。, ヒトラーは計画実行を8月26日午前4時30分と定めていたが、この計画がイギリスに漏れ、イギリスは8月25日午後にポーランドと相互援助協定を結ぶことを決定した。これを聞いたヒトラーが急遽、作戦中止を命令したため、ハイドリヒも国境付近で待機していたナウヨックスらに電話で中止を命令。作戦は一時延期された。, しかし、ヒトラーは再度ポーランド侵攻の日を9月1日午前4時45分に決定。これを受けてハイドリヒは8月31日午後4時にナウヨックスに電話を入れて「祖母が死んだ」という暗号による作戦開始の指令を出した。ナウヨックスらは午後8時少し前、ラジオ局に突入した。銃を乱射しまくり、拳銃の銃身で局員たちを殴打した。ラジオ局を制圧すると「結束してドイツ人を一人残らず叩き潰せ」などとラジオ放送してポーランド国民を扇動した[81]。